hideonakane / Text

Japanese

波のなかの砂 プロセスの海

光田 ゆり

 ひとつのタイトルのもとに展覧会を行う。そこにプロセスがある。

 

 展覧会の、設定された会期に向かうプロセスのあいだ、白いゴールラインを遠く見つつ迂回を経ていくと、ラインと見えた展覧会は、始まったとたんに次のプロセスになる。

 作品は初めに置いた位置から変わらなくても、見るひとたちを待ち受け入れる場所自体が、水をはったうつわのように揺れたり静まったりを繰り返す。そのうちに、様々な事象が引き起こされ、別のたたずまいが展開していく。そこここに何らかのプロセスが思いがけず生じることこそ望ましい。

 今度こそゴールラインと見えていた展覧会最終日に来ると、展覧会後のプロセスがもう発動している。ラインを踏むフィニッシュポーズもなくそこへと連なっていかなくてはならないのは、それが初めからすでに始まっていたから。そうしているうち、力をこめて動かさなくても別の動力がプロセスを進めていくように感じられるときがくる。そのときにはまた次の、別の展覧会プロセスが兆している。

 

 展覧会には始まりと終わりがあって、その周囲にはいくつものプロセスがある。展示のためには物の移動、物の移動のためには人の移動が必要になるが、移動の動力は、動機が整わなくては発動できない。動機が立ち上がるプロセスは一筋道にはならず、様々のエネルギーのやり取りが往来するところから発するほかはない。それぞれは何のためのプロセスとも言い難く連なっていく、波が連なるように。

 連鎖しあうプロセスは、それぞれに言葉で満たされている。砂浜の引き波が砂を巻き込んで持ち去り、また返しに来るように、たっぷりした水面が持ち上がって波頭を立てたとき、海面の表膜は破れ、内部に保たれていた言葉が白くしぶきとなって放たれる。それを受けとめようとするとき、言葉は少し手を濡らしただけで再び海に戻っていきがちだ。それでも次の波が来るときにまた、別の言葉が採集できるはずなのだ。差し出した手はその都度、しぶきをくぐり、次の言葉を待つ。

 

 展覧会はそうしたいくつものプロセスのジャンクションであり、展示空間には各場面の経過が透明な言葉で書き込まれている。そのいくつかは見る人たちに読み取られ、誤読される。読まれることで、展覧会に輪郭が与えられる。その輪郭は多角を連ねて見晴らせないが、幾人もの来訪者から送られた言葉、またはレンズを通した会場風景、それらを介した時間を重ねて、何度でも見直されながら、展覧会のかたちが作られていく。

 

 「海のプロセス-言葉をめぐる地図アトラス」と名づけられた展覧会。エステティック・ライフ(中根秀夫と平田星司のユニット)が企画する、井川淳子と福田尚代との四人展である。キャリアを積んできたほぼ同世代の四名だが、グループ展を組むのはこれが初めてだという。

 ひとりの来訪者であるわたしは、その場所へと言葉を投げ返すことになった。ほかの来訪者の方々もきっとそうしているように、わたしも訪れた展覧会会場の印象を、後になって思いめぐらせてみる。

 

 ほぼ正方形の展示室に四名の作家がそれぞれ各一辺の壁面を受けもち、拮抗しあう会場構成である。壁面の作品をスポットライトが照らし、映像作品のプロジェクションが床面に照り返す。四つの柱が守る部屋の中央に立つと、そこは最も照度の低いエリアになって、すべての作品が浮かび上がって見える。四つの壁面から発される作品の磁力が重なり合う場所に、光は静まる。静かで内省的な空間。会場は研ぎ澄まされた空気を、ゆったりとたたえていた。

 見る者は近づいてそれぞれを見、壁面を見渡しつつ、急がずに時間を過ごすように作られた展覧会である。

 四人の作家が関わりあって企画を作り、プレゼンテーション/選抜を経て、東京都美術館のひとつの展示室に向かい、プロセスを進めてきた。四人の仕事の領域は、重なってはいない。個々の出品作は、各作家のこれまでの作品すべてとの関係のもとで生み出されてくる。それぞれの背景に、惑星系にも似た各自の重力圏を備えている。それらを十分尊重しながら、一室に集めるために彼らが採った方法は、シンプルな四分割に見えながら、高度な繊細さで整えられた均衡である。四名の出品者のあいだに築かれた均等で繊細な距離感が、この会場の骨格をつくっている。展覧会のためのプロセスが多層をなしてこの骨格を支える。

 

 「言葉をめぐる地図アトラス」の語が選ばれた、言葉をテーマとする展覧会だという。会場を言葉が司るということではなかった。逆に言葉はとても抑制されている。作品はどれもよく磨かれたタイトルを備えて喚起力に富む。言葉をめぐって四人の作家たちが交わしてきたやり取りは、照明を抑えた会場中央の空間に、見えない文字で重ね書きされている。

 

 平田星司が一列に並べて展示した8本の瓶たちは、少しづつ違う輪郭をもって照明をやわらかく反射し、とぎれとぎれの影を落とす。なめらかなガラスのかけらたちは、海水と砂が混ざり合う繰り返す波とともに時を過ごして、ふとしたはずみに波力圏から放たれ浜に投げ出された。平田が浜辺を歩いて拾い集めたそれらは、ここでリズムをもってうつくしく集まっているからには、もう一度瓶の姿を成すことに同意を示しているのだろう。もっとも、彼らは瓶になって再生してもよいし、そうでなくてもよい。ほかの分身たちは今も、波のなかでかたちを変えつつある。

 平田の《海のプロセス》は、海の色に見える。

 

 緑が目に残る中根秀夫の映像作品《もういちど秋を》を照り返すのは、中根のもうひとつの出品作《白い日》である。落涙しているように見える鏡が、詩人とのコラボレーション映像をサイドから反射する。中根の映像作品は会場ではサイレントだが、もともと言葉を発し続ける装置だ。朗読される詩と、移動する景色のデジタル映像が重なるように設計されながら、不可侵のまま進行する。喪失感を語る言葉とともに、とどまらない映像を見ているとき、いつも意識の一部にありながら、そのためになることが自分には何もできていない、地震で損傷した原子力発電所を思う時の感触が浮かんでくる。詩人にとって実在だったのかもしれない「あなた」と「わたし」は、《白い日》と映像の反射のなかに反復するうちに、フロントグラスの向こうの樹々のように流れ去る。

 

 磨き抜かれたモノクローム写真が黒い木製フレームで展示されるとき、スティルのアナログ写真に井川淳子が授けた重厚さと強度に打たれる。波打ち際で泡立つ波の反射光を硬質に彫り上げた《すべての昼は夜》。この呪文のようなタイトルの作品がすべての影が光になる写真の魔法を告げている。ブリューゲルの油彩画《バベルの塔》が大量の紙片に複製され、折り重なってくずれるさまをスケール大きく見せる《バベル》連作。展覧会宣伝物のメインビジュアルになった井川の《バベル》は、天まで届こうと塔を建造するうちに、人間が互いに言葉が通じなくなってしまう、旧約聖書の記述に由来している。井川淳子は、はかないものの反復を写し出すシリーズ作品を並べながら、彼女の写真のなかで、はかなさと強靭さが表裏となって反転する。

 

 1点しかない油彩画《バベルの塔》が大量の紙片上に複製されて重なる、井川のフェイクのイメージと少し距離を置いて、福田尚代の《エンドロール》は古いガラスケースに収められた。

 木製枠のガラスごしに深く折り重なる和紙の束を見ると、筆と墨で書かれた読めない文字がぎっしりと詰まっているのがわかる。濃く書き重ねられ、重く黒い一枚、画数が少なめの字が覆う一枚、どれも細かな字が行間なく記されみっしりと時間を吸ってある。福田は自作にコメントを添えて、記したのは死者の残した大量の言葉の写しだという。亡き人の存在を言葉の総量と受けとめて、福田は鎮魂に沈潜した。文字で埋まった和紙の重なりは、木製ガラスケースの柩のなかに保管される。

 福田作品の位置から見直すと、井川の《バベル》は言葉が通じ合っていた古の時代への追悼だと思え、平田の《海のプロセス》のガラス片たちは海の骨片に見えてくる。中根の映像から発される喪失と再生への詩語をガラス越しに受けて、《エンドロール》は繰り返し、言葉と人について語り返す。

 

2017年

みつだ ゆり 美術評論

 

page top⏫